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2018-04-26

教育の無償化と憲法改正

 以下は、憲法ネット103の常設企画・市民と語る憲法講座「どこでも憲法」第3回(2018/04/12・明治大学)における成嶋隆さん(獨協大学法学部教授)の報告レジュメと資料です。どうぞお読みください。

「憲法研究者と市民のネットワーク」(「憲法ネット103」)常設企画

市民と語る憲法講座「どこでも憲法」第3回

教育の無償化と憲法改正

レジュメ

獨協大学法学部  成嶋 隆

2018年4月12日/明治大学

 

 はじめに

 2017年5月に安倍首相がいわゆる「9条加憲」論を打ち出して以来、改憲問題が急展開している。安倍改憲構想における〈本丸〉は、いうまでもなく戦争放棄条項たる9条であるが、その9条改正の〈呼び水〉として、いくつかの改憲メニューが提唱されている。その1つが、「教育の無償化・充実」である。それ自体否定することの困難なこの提言には、しかし、重大な問題点が潜んでいる。本報告は、改憲攻勢のなかでの「教育無償化・充実」提言の狙いとその問題点を剔抉することを課題とする。

    Ⅰ 改憲動向と教育改革――その連動関係

 〇3次にわたる改憲攻勢(1950年代・1980年代・1990年代以降)の特徴

  ――教科書攻撃・教基法改正提言との連動

 〇改憲の〈露払い〉としての2006年教基法改正

  教育改革の意味:改憲=〈くにのかたち〉の改変に見合う〈国民〉の創出

  〈押しつけ〉のレッテルを貼られた2つの基本法

  〈改正しやすい教基法から〉という改憲戦略

 〇2つの改革イデオロギーの〈相補関係〉

  Ⅱ 改憲構想と「教育無償化・充実」――その欺瞞性と問題性

 1 「教育無償化・充実」提言の経緯

 2017.01   安倍首相・施政方針演説で「高等教育もすべての国民に真に開かれたものでなければならない」と発言

 2017.05.03  安倍首相、改憲派集会へのメッセージで、改憲項目の1つとして「高等教育の無償化」に言及

 2017.06   安倍首相、経済運営の指針となる「骨太の方針」の目玉として、幼児教育・保育の無償化を明記

 2017.06   安倍首相、通常国会閉幕後の会見で、高等教育の負担軽減など「人づくり革命を断行する」と宣言

 2017.10   安倍首相、衆院選の公約として3~5歳児の幼児教育・保育の全面無償化を掲げる

 2017.12.08  政府、「人づくり革命」として、幼児・高等教育の一部無償化を柱とする2兆円規模の「政策パッケージ」を閣議決定。公明党が主張する「私立高校の授業料無償化」を明記

 2018.02.21  自民党憲法改正推進本部、「教育の充実」に関する改憲条文案を大筋で了承

 【自民党憲法改正推進本部が了承した条文案】(下線=追加、ゴシック体=削除)

 26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有するし、経済的理由によって教育上差別されない。

 2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 3 国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 2018.03.25  自民党大会、①自衛隊の憲法への明記、②緊急事態条項、③参議院の合区解消、④教育の充実の4項目で憲法改正を進めていくことを確認

 2 「教育無償化・充実」提言の狙い――9条改憲の〈呼び水〉(改憲ウイングの拡大)

 (1)日本維新の会の取り込み

 ・「教育無償化」の改憲項目=もともと日本維新の会の提言

 ・維新の会の改憲案:憲法26条2項「義務教育は、これを無償とする」⇒“高等教育に至るまで無償とする”

 ■「改憲による『全ての教育の無償化』は、もともと日本維新の会が掲げてきた。維新を取り込む手段として教育を持ち出し、9条改定につなげる狙いであれば、有権者と憲法をあまりにもないがしろにした行いだ。」

(朝日新聞2017年5月10日付社説「教育をだしにするな」)

 ■「〔自民党改憲条文案の〕26条1項には『経済的理由によって教育上差別されない』との文言を追加。教育無償化のための改憲を唱える日本維新の会は、党の改憲案に『経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない』と明記していることから、維新との連携が念頭にあるとみられる。」   (東京新聞2018年2月22日付朝刊)

 (2)公明党の取り込み

 ■「もとは公明党の公約だった私立高校の無償化も財源にあてのないまま、安倍首相が衆院選前にすんなり約束した。首相は悲願の憲法改正にこぎつけるため国民だけでなく、公明にも配慮しているようにみえる。」

(東京新聞2017年12月9日付朝刊)

 ■「膨らむ予算と政策にメドをつけた首相は、膨らんだ議席をもとに、早くも『憲法改正』に視線が移っているようだ。もともと教育無償化は、日本維新の会が訴え、私立高校への拡大は公明党が主導してきた政策。発議に必要な衆参3分の2以上の議席を確保するために、両党は欠かせない。」 (朝日新聞2017年12月26日付朝刊)

 (3)一部階層の取り込み

 ■「これまで政府は福祉的な政策として、低所得者層に絞って教育の無償化を進めてきたが、安倍政権はこれを転換。3~5歳児は高所得者層も含め『すべて無料』を打ちだした。政権への支持が低い中高所得の女性票を取り込むねらいが見え隠れした。」                     (朝日新聞2017年12月9日付朝刊)

 3 歴代自民党政権による教育条件整備の懈怠

 (1)憲法26条

 ■「憲法26条2項の義務教育の無償規定は、1項の教育を受ける権利を実効的に保障するために(義務教育以外の)教育を無償化することを妨げない。事実、2010年には時の民主党政権の下で高校無償化が実現した。何よりも、安倍政権が教育無償化を改憲テーマに掲げる一方で、無償化ないし教育支援に関わる施策を次々と打ち出していることが、皮肉にもこの課題についての改憲が不要であることを傍証している。」

(成嶋隆「『改憲』を読み解く」にいがたの教育情報126号(2018年4月)21頁)

 (2)国際人権法

 〇国際人権A規約(社会権規約)13条:中等・高等教育の「漸進的無償化」

 〇子どもの権利条約28条:子どもの教育への権利の「漸進的達成」、中等教育への「無償教育の導入」

 ※無償教育の「漸進的達成」原則⇒制度後退禁止原則(⇒憲法26条への規範充填)

 (3)自民党政権による無償化義務の懈怠

 ■「……憲法・条約上の教育条件整備の要請に背を向けてきたのは自民党政権である。自民党政府は、社会権規約の批准に際しては『負担の公平』や『財源確保の困難さ』を理由に同規約13条2項(b)(c)を留保した(2012年、民主党政権下で留保撤回)。また、高校無償化措置についても、政権に復帰した自民党は『効果がない』としてこれを廃止し、所得制限を伴う制度へと後退させた。」            (成嶋・前掲論文21~22頁)

 4 〈無償化〉と引き換えの教育統制

 ■「無償化提言のさらなる問題点として、これらが『無償』と引き換えの教育統制を狙っているという点がある。たとえば、大学における授業料減免や奨学金給付について、その対象を、実務家教員の担当する授業や産業界など外部から招く理事が一定割合を超える大学に限定するとしている。大学の教育内容編成権や人事権への介入といえよう。幼児教育についても、さまざまな『無償化』提言がなされる一方で、統制の方向も打ち出されている。たとえば、2018年度から小中学校で道徳が教科化されるのと連動するかたちで、幼稚園・保育園・認定こども園の教育要領・指針等がほぼ同じ内容で変わることとなった。その一例として、『幼児期の終わりまでに育ってほしい姿』として、『道徳性』『規範意識の芽生え』など10項目が規定されているのを挙げることができる。」

(同上、22~23頁)

 〇「ただより高い物はない」(奥平康弘)――その〈déjà-vu〉

 教科書無償配布と「広域統一採択制」/「八重山教教科書問題」/高校就学支援金支給措置からの朝鮮高校の除外

 5 〈無償化〉の正体

 (1)貧困な教育財政状況が〈所与の前提〉

 〇日本:GDPに対する公財政教育支出:OECD34カ国中最下位

  ※高等教育の費用負担の対GDP比:私費負担1%・公的負担0.6%

(公的負担はOECD諸国中最下位)

 (2)根底にある〈受益者負担(応益負担)原則〉

 〇新自由主義から派生する〈受益者負担原則〉

 ■「構造改革のコンセプトとなっている2つのイデオロギーがある。1つは新自由主義・市場原理主義、もう1つは新国家主義・新保守主義のそれである。これらのイデオロギーは、相補的な関係において現在の改革路線を規定している。すなわち、一方では前者のイデオロギーにもとづき、『規制緩和』の名目で国家の《公共》からの撤退が進められ、公共財が商品化されて市場における《競争》に委ねられる。各人はその《能力》に応じて《選択》し、その結果について《自己責任》を負う、という論理がまかりとおっている。」

(成嶋隆「21世紀型改正論の特徴」日本教育法学会編・法律時報増刊『教育基本法改正批判』日本評論社・2004年、2~3頁)

(3)選別的給付の問題性

 〇〈負の烙印〉の問題

 〇煩瑣・困難な認定手続

 6 批判論構築上の課題

 〇「応益負担」「応能負担」「無償性」――概念の整理と究明

 〇教育段階ごとの費用負担の制度設計

 〇国際人権法による憲法への〈規範充填〉法理の確立

 

 

「どこでも憲法」第3回・報告「教育の無償化と憲法改正」

資 料 編

(作成:獨協大学法学部 成嶋 隆/20180412)

  資料Ⅰ  憲法改正と「教育改革」

 ■「 はじめに

 90年代以降、現行憲法の明文改正を射程にとらえた憲法構造の全般的な改編が進行している。この憲法構造の改革において、教育(法)改革は根幹的な位置を占める。それは、近代国民国家の形成期において示されたように、国家が一定の国家目的に向けて国民を統合するうえで、公教育が極めて重要な役割を果たすからである(1)。改憲派の論客が、教育基本法(以下、教基法)改正と憲法改正とが連動すべき理由を次のように語るのも、このことを裏書きする。――『なぜなら、憲法は国のかたちを原理的、外形的に規定するものであり、教育基本法はその国を根底において支える人間のかたちを精神的、内面的に方向づけるものだからだ。』(2)以下に検証するように、教基法改正を軸とする今次の教育(法)改革は、明文改正後の憲法規範に見合う《国民》の形成に資するような教育法制を構築することを目指している。その意味で、明文改憲の予備作業としての性格を帯びている。

 このような教育(法)改革が、現行憲法との間に著しい緊張関係を惹起することは間違いない。同時にそれは、教育の営みを変容させるのみならず、社会全体のありかたをも大きく変貌させることになろう。教育(法)改革はいかなる日本社会の《未来像》を描いているのか、それは立憲主義の見地からいかに評価されるか。これらの点につき考察するのが小論の課題である。

  一 教育(法)改革の現段階  《略》

  二 教育(法)改革と憲法改正

 1 改憲への連動

 新教基法とこれを具体化した教育三法による教育法改革は、同時並行的に進行中の明文改憲動向と密接に関わる。

 第1に、教基法改正と改憲との連動関係である。もともと旧教基法は、憲法の1つの『章』をなすべき規範を、憲法とは別個に『基本法』という形式で定めたものであった。同法の定める規範が内容面で憲法と一体関係にあることは前述したとおりである。同法が『準憲法』『憲法付属法』『教育憲章』などと呼ばれたのは、以上の理由による。

 この事情は、ある種シンボリックな意味合いをもつこととなった。つまり、改憲派の眼にも憲法と一体のものと映る旧教基法は、憲法とともに明文改正の重要なターゲットとして位置づけられたのである。これら2つの基本法が同時代的な産物であったこと、その特異な《出自》(占領下における制定)に関して、ともに《押しつけ》の烙印を押されていたことも、連動関係を規定した。さらに、教基法が『基本法』なる名称をもつものの、法形式上は一般の法律と同格であることは、《改正しやすい教基法から》という改憲戦略を導いた。そして事態はそのシナリオどおりに進行しようとしている。

 2 改憲後の《国民像》の提示

 冒頭に述べたように、教育(法)改革の目的の1つは、想定される明文改憲の後、『新憲法』下の国家・社会に適合的な《国民像》を提示し、かかる《国民》の育成のための法整備を行うことにある。標榜されている《国民像》は、今次の教育(法)改革の背景要因とその根底にあるイデオロギーの分析により浮き彫りとなる。

 教育改革を含む構造改革の背景にある国家戦略・課題は、①日米同盟を主軸とする軍事大国化・戦時国家体制の構築と、②メガ・コンペティション(大競争)状況下での日本企業の生き残りをかけた国際競争力の強化の2点である。そして、これらの国家課題を遂行するための構造改革のイデオロギーとしてあげられるのは、新自由主義(neo-liberalism)と新国家主義(neo-nationalism)の2つである。2つの改革イデオロギーについては、それらが相互補完関係にあり、とくに新自由主義的改革がもたらす国民統合の破たん(格差社会の進行)を新国家主義イデオロギーにもとづくナショナリズムの醸成により取り繕うという構図を描くことができる(11)。教育に即していえば、競争と選別を特徴とする新自由主義的な教育改革が必然的にもたらす教育格差の拡大の結果、二極分解していく子どもたちに対し、2通りのコースが設定され、それぞれに新国家主義的な対応がなされることになる。すなわち、『一方で、〈エリート層〉の子どもに対する教育では、競争市場を自らの力で漕ぎ渡っていく『たくましさ』とそこで発揮される創造的な能力の育成をめざし、同時に、能力主義的な競争秩序のなかで培われた〈選良意識〉を梃子にして、自ら主体的に国家を背負っていくという意味での自発動員型のナショナリズムへと誘導していく。他方、〈ノン・エリート層〉の子どもたちに対する教育では、競争市場における『負け組』としての自らの存在を甘んじて受容し、道徳規範や規律、権威主義的なナショナリズムの押しつけに対しても疑問を感じない、実直で従順な意識を『涵養』していく』(⒓)という対応である。 《後略》

 【原注】

 (1)成嶋隆「教育と憲法」樋口陽一編『講座憲法学4権利の保障【2】』(日本評論社、1994年)107~108頁。

 (2)松本健一「教育に取り戻したい『公』の意味」産経新聞2005年4月21日「正論」欄。

  《中略》

 (11)成嶋隆「21世紀型改正論の特徴」日本教育法学会編・法律時報増刊『教育基本法改正批判』(日本評論社、2004年)2~3頁。

 (12児美川孝一郎「期待される人間像の〈裂け目〉」現代思想32巻4号99頁。  」

(成嶋隆「『教育改革』と憲法原理」民主主義科学者協会法律部会編・法律時報増刊『改憲・改革と法』(日本評論社・2008年)200~205頁)

  資料Ⅱ  無償教育に関する憲法・法律・条約の諸規定

○日本国憲法(1946年)

  【教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償】

26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする

○旧教育基本法(1947年)

  【教育の機会均等】

  3条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないのであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない

 ② 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

  【義務教育】

  4条 国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。

 ② 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない

〇新教育基本法(2006年)

  【教育の機会均等】

  4条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない

 ② 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。

 ③ 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

  【義務教育】

  5条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

 ② 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

 ③ 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。

 ④ 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない

〇学校教育法(2007年改正後)

  【授業料の徴収】

  6条 学校においては、授業料を徴収することができる。ただし、国立又は公立の小学校及び中学校、中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部及び中学部における義務教育については、これを徴収することができない

〇義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律(教科書無償法、1962年)

  【趣旨】

  1条 義務教育諸学校の教科用図書は、無償とする

 ② 前項に規定する措置に関し必要な事項は、別に法律で定める。

〇義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(教科書無償措置法、1963年)

  【教科用図書の無償給付】

  3条 国は、毎年度、義務教育諸学校の児童及び生徒が各学年の課程において使用する教科用図書で第13条、第14条及び第16条の規定により採択されたものを購入し、義務教育諸学校の設置者に無償で給付するものとする。

  【教科用図書の給与】

  5条 義務教育諸学校の設置者は、第3条の規定により国から無償で給付された教科用図書を、それぞれ当該学校の校長を通じて児童又は生徒に給与するものとする。《2項略》

〇公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律

 (高校の授業料無償化・就学支援金法、2010年)

  【目的】

  1条 この法律は、公立高等学校について授業料を徴収しないこととするとともに、公立高等学校以外の高等学校等の生徒等がその授業料に充てるために高等学校等就学支援金の支給を受けることができることとすることにより、高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の機会均等に寄与することを目的とする。

  3条 学校教育法第6条本文の規定にかかわらず、公立高等学校については、授業料を徴収しないものとする。ただし、授業料を徴収しないことが公立高等学校における教育に要する経費に係る生徒間の負担の公平の観点から相当でないと認められる特別の事由がある場合は、この限りでない。

 ② 国は、公立高等学校における教育に要する経費のうち、前項の規定の適用がないとしたならば地方公共団体が徴収することとなる授業料の月額の標準となるべき額として政令で定める額(第6条第3項において「公立高等学校基礎授業料月額」という。)を基礎として政令で定めるところにより算定した額に相当する金額を地方公共団体に交付する。

  【受給資格】

  4条 高等学校等就学支援金(以下「就学支援金」という。)は、私立高等学校等に在学する生徒又は学生で日本国内に住所を有する者に対し、当該私立高等学校等(……)における就学について支給する。《以下略》

〇高等学校等就学支援金の支給に関する法律(高等学校等就学支援金法、2014年)

  【目的】

  1条 この法律は、高等学校等の生徒等がその授業料に充てるために高等学校等就学支援金の支給を受けることができることとすることにより、高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の機会均等に寄与することを目的とする。

  【定義】

  2条 この法律において「高等学校等」とは、次に掲げるものをいう。

 一 高等学校(専攻科及び別科を除く。以下同じ。)

 二 中等教育学校の後期課程(専攻科及び別科を除く。次条第3項及び第5条第3項において同じ。)

 三 特別支援学校の高等部

 四 高等専門学校(第1学年から第3学年までに限る。)

 五 専修学校及び各種学校(これらのうち高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるものに限り、学校教育法(……)第1条に規定する学校以外の教育施設で学校教育に類する教育を行うもののうち当該教育を行うにつき同法以外の法律に特別の規定があるものであって、高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの(……)を含む。)

  【受給資格】

   4条 高等学校等就学支援金(以下「就学支援金」という。)は、高等学校等に在学する生徒又は学生で日本国内に住所を有する者に対し、当該高等学校等(……)における就学について支給する。《以下略》

〇経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約

(国際人権A規約・社会権規約、1966年採択、1979年日本批准)

  13条 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。《以下略》

 ② この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。

 (a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。

 (b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。

 (c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。《以下略》

〇児童の権利に関する条約(子どもの権利条約、1989年採択、1994年日本批准)

  28条 締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、

 (a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。

 (b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。

 (c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。

《以下略》

  資料Ⅲ  「公教育の無償性原則の射程」(教育法学会報告)

   公教育の無償性原則の射程

 Ⅰ 「学校3原則」(trilogie scolaire)の1つとしての「無償性」(gratuité)

 19世紀後半に欧米各国で成立する公教育制度は、義務性・無償性・世俗性という3つの原則に支えられていた。これらのうち無償性(=公費教育)原則については、対照的な2つの理解がある。1つは慈恵的・国策的公費教育観であり、これは就学強制の見返りないし恩恵として無償性原則をとらえるものである。戦前日本における無償教育観もこれに通底するものであり、無償性は国益実現の観点から義務教育を普及するという〈行政の便宜〉に出た原則だと説かれた。もう1つの理解は、権利保障的公費教育観である。これは公費(租税)を〈人間労働の変形〉とみなし、その労働者・国民への還元として無償性原則をとらえる。現代公教育について報告者は、これを〈権利としての教育〉を保障すべき公的システムとして把握する。その立場から本報告では、無償性原則についての2つの理解のうち後者のそれを踏まえることとする。

 Ⅱ 「義務教育の無償」の意味

 1 現行法制

 考察の素材である無償教育に関する現行法制を確認する。憲法26条2項後段は端的な表現で「義務教育の無償」を定める。これを受け教育基本法4条2項(旧)・5条4項(新)は、「国公立学校」の「義務教育」についての「授業料不徴収」として無償教育原則をブレイク・ダウンした。この趣旨は学校教育法6条においても確認的に規定されている。一方、教科書無償(措置)法により国公私立の「義務教育諸学校」の「教科用図書」の「無償配布」が制度化されている。さらに2010年に制定された高校無償措置法は、「公立高校」における「授業料不徴収」と「私立高校等」の「生徒等」への「就学支援金」の支給について定めている。

 2 学説・判例

 憲法26条2項の定める「義務教育の無償」については、その範囲をどこまでと解するかをめぐって、学説の分れがある。初期の学説であるプログラム規定説(無償範囲法定説)は、同条1項の「教育を受ける権利」を「国家が教育の機会均等につき配慮すべきことを国民の側から権利として把握したもの」とし、同条項は「教育を受けるにあたって必要な費用の支払いを国家に請求しうる……具体的な権利まで〔国民に〕与えているのではない」と説いた₁。通説と目される授業料無償説は、義務教育の無償の範囲を授業料までと解する立場である。判例もこの立場であり、そこでは「教育提供に対する対価とは授業料を意味するものと解されるから、同条項の無償とは授業料不徴収の意味と解するのが相当」と判示された。なおこの判決は、教科書代など授業料以外の費用の負担につき、「国の財政等の事情を考慮して立法政策の問題として解決すべき事柄」としている₂。これら2説に対して、無償の範囲を授業料のほか、教科書代・教材費・学用品費など義務教育就学(修学)に必要な一切の費用と解する就学必需費(修学費)無償説がある₃。

 3 奥平=永井論争

 「義務教育の無償」の範囲をめぐって展開された論争がある。授業料無償説に立つ奥平康弘(憲法)と、就学必需費無償説に立つ永井憲一(憲法・教育法)との間で交わされたものである。同論争のポイント整理をとおして、問題の所在を究明していきたい₄。

(1)奥平説A

 先陣を切った奥平は次の3点を主張した。――①子どもの教育につき親が一定の権利・責任を有するとすれば、教育費の一部を親の負担とすることは不合理ではない。②経済的理由により就学困難な場合は、無償措置ではなく生活保護により対処すべきである。③就学必需費無償説に立った場合、私学との関係では、一方で国公立における無償措置を拡充すれば私学との格差が増大し、他方で無償性原則を私学にも拡大しようとすると私学の自主性を阻害するというディレンマに逢着する

(2)永井説A

 上記3点につき永井は次のように反論した。――①親の教育の自由は国の条件整備義務を前提とするのであり、親自身の教育費負担は筋違いである。②無償原則と機会均等原則は一体のものであり、生活保護による代替は不適切である。③無償性を私学に拡大しても私学の教育の自由の要請とは矛盾しない。(補足的に永井は、「あいまい」との批判を受けた「就学必需費(修学費)」の内容を提示している。)

 (3)奥平説B

 第2ラウンドにおける奥平の再批判は次のごとくである。――①国家権力の介入は規制であれ援助であれ必要不可欠なものに限るべきである。制度の内部に効果的な抑制措置を用意しておかなければタダはかえって高いものにつく。②教育の無償性を徹底すればするほど裕福な家庭に有利となるという〈悪平等〉が生ずる。③国公立と私学との間で教育費負担における格差が増大すれば私学の自由への脅威となる。一方、永井説のように私学にも無償性の保障が及ぶべきだと立論すると、授業料を徴収している私学の現状は違憲といわざるをえない。――この再批判のうち、①の言説は、たとえば教科書無償配布制度といわば〈抱き合わせ〉の格好で、教科書発行者指定制や広域統一採択制などの国家統制措置が導入されたことなどが念頭におかれているとみてよい。また③の後半部の指摘は、憲法26条2項が単に「義務教育は無償」と規定し、文言上は私学における義務教育を除外していないところ、憲法学説のほとんどすべてが私学における授業料徴収を違憲とはしていない現状において、あえて私学にも無償性が及ぶべきだと主張する勇気?があるのかという、やや挑発的ないし揶揄的なトーンがある。

 (4)永井説B

 第2ラウンドにおける永井の再反論は、第1次のそれの再論が多い。新たなものとしては、論点②に対する、社会保障に依存することはパターナリズムを招来する危険がある、との反論があげられる。

 (5)論争への諸コメント

 本論争につき、長谷部恭男(憲法)は、奥平の生活保護依拠論に対し「本当に必要な世帯のみに福祉サーヴィスを提供すべきだとの観念は、必要性の厳格な調査、つまり各家庭のプライヴァシーの侵害なくして実現可能か」との疑義を提起する₅。一方、棟居快行(憲法)は、直接には内野正幸のいわゆる「厳格憲法解釈論」についてコメントするなかで、憲法26条2項の「無理のない文理解釈」によれば「無償」の範囲が「授業料の無償に縮減」される理由はないとする₆。

 報告者自身は基本的に永井説に同調する。すなわち論点①については、親の教育権は教育費負担を条件とするものではないと考えるべきであり、②については、補足性を原則とする生活保護制度の限界や永井・長谷部の指摘するパターナリズムの問題も考慮すべきである。広範な国民各層に共通する教育費負担増の問題は、無償措置により対応すべきであろう。論点③については、奥平説が、一方では〝私学は有償であることにより独自の存在意義を担保しうる″とし、他方では〝国公立と私学との間で格差が増大すると私学の自由が脅かされる″とするところに矛盾を感ずる。また、〝私学への無償性の拡大を主張すると現状は違憲といわざるをえなくなる″との論難は、私学における授業料徴収が一点の疑いもなく合憲であることが論証されない限り、じつは授業料無償説にも向けられていることを指摘しておく。

 4 論点の収斂

 奥平=永井論争を含む学説展開や判例動向を通覧してくると、この問題をめぐって最終的に問われてくるのは、1つは、初発からの論点である義務教育の無償の範囲の問題、もう1つは私立学校と無償性原則の関係という問題であるように思われる。この2点についてさらに考察を進める。

 (1)〈授業料+〉部分の範囲

 奥平=永井論争につき報告者は永井説に与した。もっともこの評価は、問題を理論的に突きつめた末の帰結であり、永井説の全面的な承認を意味しない。同説に代表される就学必需費無償説には、授業料を超える無償部分、いわば〈授業料+〉部分の具体的な範囲を説得的に提示するという困難な課題が突きつけられているが、いまだその解答が示されていないと思われるからである。

 〈授業料+〉部分に関しては、これまでにいくつかの提言がなされている。たとえば、国は1967年に、義務教育費国庫負担法に基づく教材費の国庫負担を前進させるべく、学校の教具類で2分の1国庫負担になるものの品目と数量を定めた「教材基準」を作成している。同基準につき兼子仁は次のように評した。――「……個人使用の教材費、運動具をふくむ学用品費をはじめ、遠足・修学旅行をふくむ学校行事参加費、クラブ活動費、給食費などが、多く父母負担とされている。これらは個人の利益に還元されるから〝受益者負担″でよいという考え方がなされやすいようであるが、それはごく一面を捉えたのにすぎず、右の費目はすべて学校教育活動に伴うもので公教育費としての性格が強いと見られる。」₇

 この問題でしばしば引照されるのは、都道府県教育長協議会の次の提言である₈。

〔直接教育活動費〕

1 公費負担とすべき経費

(1)学級、学年、学校単位で共用または備え付けとするものの経費

(2)その他管理、指導のために要する経費

2 私費負担とすべき経費

(1)児童生徒個人の所有物にかかる経費で

 (ア)学校、家庭のいずれにおいても使用できるもの

 (イ)学級、学年の特定の集団の全員が個人用の教材・教具として使用するもの(教科書以外の個人用図書、ノート、文房具、補助教材、学習用具など)

(2)教育活動の結果として、その教材、教具そのもの、またはそれから生ずる直接的利益が児童生徒個人に還元されるものにかかる経費(学習教材、校外施設学習の食費、遠足・修学旅行費等)

 〔間接教育活動費〕

1 間接教育活動費は原則として公費負担とすべきである。

2 ただし、教育研究団体等の負担金や分担金の扱いについては、特別な配慮が必要であると思われるので、次のような基準を設ける。

(1)学校が構成単位となっている研究団体については、その負担金・分担金(学校割となる分)は公費負担を原則とする。

(2)特定の個人で構成される研究団体については、その負担金・分担金(個人割となる分)は個人負担を原則とする(公費による援助は事業費にたいする補助とする)。

(3)その他の研究団体等については、その性格を検討のうえ、(1)(2)の原則に照らして負担区分を判断するものとする。

 

 この区分論については、牧柾名の次のようなコメントがある。――「こうした負担区分問題もより詳細に検討され、義務教育を受けるに際して必要な直接教育費(学校の教育計画による教育活動に直接必要な教材・教具・実験・実習費など)、管理運営費・施設設備費については原則として公費で負担する制度を実現することこそ憲法26条の趣旨に合致するものであろう。」₉

 兼子、牧のコメントに共通するのは、〈授業料+〉部分、言い換えれば公費負担部分の範囲を確定する際に準拠すべきは「受益者負担」原理ではなく、学校教育活動との実質的関連性という基準であるとの視点である。先の論争において永井が示した〈授業料+〉部分(「文部省のいう『保護者支出教育費』のうちの『学校教育費』のうち、PTA会費を除くほかのすべて〔の部分〕」)も、(永井自身はそのことを明言していないが)おそらく学校教育活動との実質的関連性を目安とするものと思われる。〈授業料+〉部分の確定は、なお今後の課題とみられるが、考察の基本的な枠組としてはこの基準論が妥当であろう。

 次に問題となるのは、〈授業料+〉部分の憲法上の位置づけである。〈授業料+〉部分の無償が憲法上要請されるとして、その規範的要請はいかなるレベルのものか、という問題である。この点、報告者は、〈授業料〉の無償要求は具体的権利性を有する、つまり「授業料の無償」は裁判規範であり、その保障について国家は法的義務を負うのに対し、〈授業料+〉部分の無償要求は抽象的権利にとどまり、その保障について国家は兼子仁のいう「法原理的義務」を負う、という試論を提示したい。兼子の「法原理的義務」論とは、「国の義務教育無償義務は、授業料無償のほかは原則として直ちに裁判で金銭支払請求されえず、立法・予算等を通じて具体化されるものではあるが、旧来のプログラム規定説が説くように国が適宜に立法政策をたてていけばよいという政治的義務にすぎないものではなく、憲法上、国民の教育をうける権利に対応している法原理的義務である」10との立論である。同説に対しては奥平による手厳しい批判があるが₁₁、報告者はこの概念の有用性を承認したい。そして、この「法原理的義務」の内容の1つとして、最近の憲法学界において活発に議論されている〈制度後退禁止原則〉が含まれる、というのが報告者の理解である。

 〈制度後退禁止原則〉とは、「〈ある制度の設立(ないしその制度の下での一定の利益供与……)は、憲法上の要請ではないが、それらがひとたびなされた以上は、当該制度を廃止する(もしくは制度の内容を後退させる……)ことは、憲法上許されなくなる〉との命題」₁₂である。主として、憲法25条の生存権規定の法的性格をめぐる議論のなかで、「抽象的権利説からの派生命題」₁₃として唱えられたものである。同原則について、「一般論としては肯定しがたい」とする内野正幸は、その難点を次のように指摘する。――「下位規範に先行して確定しているはずの憲法上の法規範の内容が、下位の制度の有無(ないし内容)によって逆に規定されてしまう(換言すれば、制度設立の前か後かでそれにかかる憲法的規範の法的拘束力が無から有に変わってしまい、また、制度を設立すればするほど憲法上の法規範となる領域が拡がる)。」₁₄内野自身は、このような難点を指摘しつつも、憲法25条2項に関する限りでは、その「向上及び増進に努める」との文言を根拠に〈制度後退禁止原則〉を認めている₁₅。思うに、ある権利を具体化するための制度を新規に創設する場合と既存の制度を改廃する場合とでは、立法裁量の広狭が異なることは「法の一般原則」₁₆としても肯認されよう。目下のテーマである公教育無償原則の射程の問題に即していえば、〈授業料+〉部分の無償についてはこの〈制度後退禁止原則〉が働き、「一旦具体化した水準を低下・後退させる場合には、裁量の幅は狭まると解され、相応の正当化が要求される」₁₇ことになろう。

 (2)私立学校と無償性原則の関係

「義務教育の無償」をめぐる第2の論点は、私立学校と無償性原則との関係という問題である。前述したように、憲法26条2項は文言上、私学における義務教育を無償の対象から除外していない。したがって、文理解釈上は私学における義務教育にも無償性原則が及ぶべきことになる。実態としては、私学は小学校から大学にいたるまで有償(授業料徴収)であり、このことは私立学校の本質に由来すると解されているふしもある。一方、法制的には、先にみたように、義務教育ではない私立高校について、生徒に対する「就学支援金」の支給というかたちで、公立高校における授業料不徴収の部分的代替措置が講じられている。ここには一種の〈ねじれ〉がある。

 私学における授業料の徴収については、じつは憲法・教育基本法の制定過程においてすでにその合憲性をめぐる議論がなされていた。この議論のなかで登場したのが、いわゆる「権利放棄」論である。これは、「……私立学校で義務教育を行う場合に、授業料を徴収してよい理由は、国立又は公立の学校で無償の義務教育が受けられるのに、みずから進んで私立の学校へ行くのは、無償で義務教育を受ける権利を放棄したものといいえられるからである」₁₈との主張であり、これが学界にも受け入れられてきた。

 「権利放棄」論に対しては、次のような批判がある。――「現行法制は学校選択の自由を原則的に認めている(その範囲は国・公・私立のいずれかを選択するという限られた範囲ではあるが)のであるから、その選択の自由を、事実上経済的優位者においてのみ意味をもつものとしないためにも、私立学校における授業料徴収問題について、助成措置その他の制度的改善が検討されてよい……。」₁₉また、私立高校に関する次の指摘も、「権利放棄」論の問題性を衝くものといえよう。――「……小・中学校の生徒が義務教育および授業料の無償制の保障のもとにあるといっても、公立学校の生徒を対象とするものであり、公立学校以外の私立学校についてはこの保障のもとにないと解されている(教基法4条)。ましてや、……私立高校となるとこの対象とならないのは当然であるとする考え方も出てこよう。しかし、……高校への進学率が依然増加し、1979(……)年では、中学卒業者の94パーセントを超えている。このような結果、私立高校と比べて学費等の安い公立高校への進学を望みながら、収容施設の不足から限られた者しか入学できず、結局、私立高校に進学せざるを得ないのが現実の状況である。」₂₀

 以上のようにみてくると、私学における授業料徴収、とくに義務教育段階でのそれを手放しで合憲とみなすのはやや困難であるように思われる。この点につき、兼子は「私立の義務教育学校の授業料は、すべてが義務教育無償原理に反するわけではないとはいえ、国民に私学で教育を受ける権利が保障されている以上、私立義務教育学校における授業料負担も無償原理に沿うように助成措置によって低くとどめられていなければならない」₂₁とするが、私学助成(ここでは憲法89条との関係での私学助成の憲法上の論点には立ち入らない)による私学授業料負担の軽減も、憲法26条の要請するところとみてよいだろう。すなわち、このような措置を講ずることは国にとっては「法原理的義務」となり、ここでも〈制度後退禁止原則〉が働くと解されるのである。

 Ⅲ 義務教育以外の無償性

 ここでは公教育無償原則の射程に関する考察を、義務教育以外の公教育、とくに後期中等教育および高等教育について行う。結論を先取りするならば、これらの教育段階にあっても、先の〈制度後退禁止原則〉が妥当すると解すべきであろう。この解釈の手がかりは、中等教育・高等教育を受ける権利について定める国際人権A規約(社会権規約)13条および子どもの権利条約28条が、「漸進的な導入」・「漸進的に達成」といった文言を用いていることである。たとえば社会権規約13条は、その第2項で「この規約の締約国は、1の権利〔=教育についてのすべての者の権利〕の完全な実現を達成するため、次のことを認める」とし、中等教育については「(b)種々の形態の中等教育(……)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること」、そして高等教育については「(c)高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」と定めている。内野正幸が憲法25条2項について、その文言を理由として〈制度後退禁止原則〉を認めたことは先にみたとおりだが、この論法にならうならば、まさしく「漸進的導入」・「漸進的達成」の文言は、導入・達成したレベル、つまり「制度」化したレベルからの「後退」を「禁止」するという規範を示していると解されよう。

 ところで、上に引用した社会権規約13条については、1979年にわが国が同条約を批准した際に、政府が「日本国は、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第13条2(b)および(c)の規定の適用に当たり、これらの規定にいう『特に、無償教育の漸進的な導入により』に拘束されない権利を留保する」との宣言を行っている₂₂。上述のとおり、留保された規定に〈制度後退禁止原則〉が含意されており、その原則は同時に憲法26条から導かれる規範であるとすれば、この「留保」宣言という国家行為の違憲性の問題が(司法的訴求が可能かどうかはおくとして)提起されることとなろう。

 Ⅳ 「民族教育」の無償をめぐる諸問題――高校無償措置法と朝鮮学校 《略》

 〔原注〕

 1) 法学協会『註解日本国憲法・上巻』有斐閣、1953年、500-501頁。

 2) 最大判1964.2.26判時363号9頁。

 3) 永井憲一「教育を受ける権利と義務教育の無償制の意義――教科書費国庫負担請求事件」『憲法判例百選Ⅱ〔第3版〕』有斐閣、1994年、291頁、山崎真秀「第26条」『基本法コンメンタール新版憲法』日本評論社、1977年、123頁など。

 4) 論争のテキストは、奥平康弘「教育を受ける権利」芦部信喜編『憲法Ⅲ人権(2)』有斐閣、1981年、377頁以下、同『ヒラヒラ文化批判』有斐閣、1986年、232頁以下、永井憲一『憲法と教育基本権〔新版〕』勁草書房、1985年、88頁以下、同「義務教育の無償性をめぐる論議」法時59巻11号107頁以下など。

 5) 長谷部恭男・書評「奥平康弘著『ヒラヒラ文化批判』」法セ388号148頁。

 6) 棟居快行・書評「内野正幸『教育の権利と自由』」国際人権5号89頁。

 7) 兼子仁『教育法〔新版〕』有斐閣、1978年、239頁。

 8) 平原春好「義務教育における公費と私費」季刊国民教育26号49頁以下より。

 9) 牧柾名「義務教育―教育基本法第4条」『基本法コンメンタール新版教育法』日本評論社、1977年、59頁。

10) 兼子・前掲注7) 236頁。

11) 奥平「試論・憲法研究者のけじめ」法セ369号8頁以下。

12) 内野正幸『憲法解釈の論理と体系』日本評論社、1991年、154-155頁。

13) 棟居「社会保障法学と憲法学」社会保障法22号154頁。

14) 内野・前掲注12) 155頁。

15) 同上377頁。

16) 葛西まゆこ「生存権と制度後退禁止原則」季刊企業と法創造7巻5号32頁。

17) 高橋和之『立憲主義と日本国憲法〔第2版〕』有斐閣、2010年、289頁。

18) 教育法令研究会『教育基本法の解説』国立書院、1947年、87頁。

19) 牧・前掲注9) 59頁。

20) 吉田善明「私立高校の学費と憲法26条――いわゆる私学訴訟第1審判決を中心にして」判タ445号8頁。

21) 兼子・前掲注7)237-238頁。

22) 「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約及び市民的及び政治的権利に関する国際規約の署名の際に日本国政府が行った宣言」(1979年8月4日外務省告示187号)

(成嶋隆「公教育の無償性原則の射程」日本教育法学会年報41号『教育の国家責任とナショナル・ミニマム』有斐閣・2012年、121頁以下より)

  資料Ⅳ  Déjà-Vu?――無償措置と統制

 ■「検定制度のその後の変遷では、とくに以下の2つの出来事が注目されます。1つは、1989年に行われた教科用図書検定規則の改正です。《中略》もう1つの重要な出来事は、1963年の教科書無償措置法の制定にともなうもので、さきに紹介した教科書統制の3つのしくみの1つである広域統一採択制の導入です。教科書無償措置法(義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律)は、前年に制定された教科書無償法(義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律)を受けて、教科書無償配布の手続を定めた法律ですが、この法律によって、次のような採択のしくみが制度化されました。まず都道府県教育委員会が市町村教育委員会の行う採択に関する事務について『適切な指導、助言又は援助』を行うこと(10条)と、当該都道府県の区域について『市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域』に『教科用図書採択地区』を設定すること(12条)が定められました。そして、教科書の採択は、都道府県教委の指導・助言・援助により『種目(……)ごとに一種の教科用図書』について行うこととされ(13条1項)、さらに『採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるとき』は、当該採択地区内の市町村教委は、『協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない』と定められました(13条4項)。これが広域統一採択制です。この制度が、教科書の無償配布といわば“抱き合わせ”のかたちで設けられたところに、そのコンセプトが表れていると思います。平たくいえば、“教科書はタダでくれてやるから、内容や種類については文句をいうな”ということでしょう。 《中略》

 次に、採択をとおしての教科書統制について述べたいと思います。採択による統制も、じつは2通り、あるいは2つの方向でなされております。1つは、報告テキストで『教科書採択への介入①――特定教科書の排除』としたもの、もう1つは、同じく『教科書採択への介入②――特定教科書の押しつけ』と記したものです。  《中略》

 採択をとおした教科書統制のもう1つのやりかたは、特定の教科書を今度は押しつけるというものです。その最たる例が、いわゆる『八重山教科書問題』です。報告テキストにまずこの事例の概略を記しました。――『沖縄県の石垣市、竹富町、与那国町の3市町で構成する八重山教科書採択地区での中学公民教科書の採択に際し、保守色の強い育鵬社版を採択した石垣市・与那国町に対し、竹富町が東京書籍版を採択したことが文科省により『違法』と指弾され、教科書無償給付の対象とされなかったばかりか、文科相から異例の『是正要求』を受けた問題』ということです。以下、この事件の経緯を説明します。

 まず2011年6月に、石垣市の教育長(この人は育鵬社版教科書の支持派です)が八重山教科書採択地区協議会の規約を一方的に改定し、運営や手続の変更も行います。たとえば、現場の教員である教科書調査員による教科書の『順位づけ』の制度を廃止する、調査員を恣意的に委嘱する、などです。8月11日、協議会が『育鵬社版採択』という答申を行いました。これを受け、石垣市・与那国町の教委は育鵬社版を採択しましたが、竹富町は東京書籍版の公民教科書を採択しました。竹富町がこういう選択をした理由は、①採択地区協議会の運営が不公正である、②教科書調査員が育鵬社版を推薦しなかった、③町教委独自の教科書研究で東京書籍版が高評価を得た、の3点でした。ともあれ、協議会を構成する自治体間で異なった採択となったため、8月30日に協議会の『再協議』が行われました。が、これは不調に終わります。次に、今度は3市町の教育委員全員による協議が9月8日に行われました。その結果は、『育鵬社版の不採択・東京書籍版の採択』というものでした。当初の協議会答申が覆されたわけです。このころから、文科省が動き出します。中川正春文科相(当時)が『協議は整っていない』として、協議会答申に従わなかった竹富町のみを無償給付の対象から除外したのです。そこで竹富町は、篤志家の寄付による東京書籍版教科書の無償配布を行うことにしました。しかし、文科省による竹富町への圧力はとどまることなく、ますますエスカレートしていきます。文科省は、『竹富町の対応は違法』と決めつけ、文部政務官を竹富町に派遣する、『指導文書』を送付する、沖縄県教育長を本省に呼びつける、会見等で県教委・竹富町教委の批判を行う、といった介入を行いました。その極め付けが、2014年3月14日に行われた、文科相による竹富町に対する『是正要求』です。これは、各大臣(この場合は文科相)が、市町村の事務処理が『法令に違反』していたり、または『著しく適正を欠き』かつ『明らかに公益を害している』と認める場合において『緊急を要するときその他必要があると認めるとき』は、『自ら当該市町村に対し、当該事務処理について違反の是正又は改善のため必要な措置を求めることができる』と定める自治法245条の5第4項にもとづく手続です。この『是正要求』は、地方自治法施行以来、初めてのものでしたが、それがいかなる意味をもっていたかを考える必要があります。『是正要求』が出された3月中旬という時期は、すでに次年度の年間指導計画が作成されていて、竹富町では東京書籍版の使用を前提とする授業計画が練られていました。それを年度末直前に変更し、48人の中学生が使用する公民教科書を育鵬社版に変更せよ、というわけです。いかに乱暴な『是正要求』だったがわかります。当然のことながら、竹富町は『是正要求』を拒否します。これが2014年3月24日です。その後の動きですが、2014年4月9日に教科書無償措置法の改正がなされました。この改正の趣旨は『教科書採択の改善』ということにありました。具体的には、採択地区内で教科書が一本化できず、教科書の無償給付ができない事態の発生を防止するということです。この観点から、共同採択の場合は採択地区協議会を必ず設置すること、当該採択地区を構成する市町村の教育委員会は協議をして採択の一本化に努めること、そして必ず協議結果に従うこと、などが定められました。この法改正が、まさに竹富町のような対応を抑えこむことを目的としたものであったことは明らかです。さて、この問題の最後の経緯ですが、文科相の『是正要求』を竹富町が拒否したのを受け、文科相は竹富町を訴えることを考え始めます。これは、地方自治法の251条の7第1項にもとづく訴訟のことで、簡単にいいますと、是正要求に応じないという竹富町の対応を『不作為』ととらえ、その『不作為』が違法であるとの確認を求めるという訴訟です。ところが文科省内で、『いまさらこういう裁判を起こしても意味がないんじゃないか』という意見が強まり、結局、文科省は提訴を断念いたしました。これによって、この問題は一応決着がついたわけですが、見落とすことのできない問題が1つあります。竹富町の中学生は結局東京書籍版を使うことになったわけですが、それは無償給付の対象とはされませんでした。地元の有志のカンパによって購入し、それを生徒たちに与えたというかたちです。そもそも教科書の無償給付というのは、憲法26条2項の『義務教育はこれを無償とする』にもとづく義務教育無償原則を教科書について具体化・制度化したものです。言い換えれば、義務教育教科書の無償給付を受ける権利は、憲法で保障されたものであるということです。この憲法上の権利が、竹富町の中学生については最終的に保障されなかった、侵害されてしまった、という問題が残されたわけです。」

(成嶋隆「報告 教科書統制3つのしくみ――検定・採択・使用義務」獨協大学地域総合研究所シンポジウム「いま、教科書が危ない」地域総合研究9号(2016年3月)41頁以下より)

  資料Ⅴ  「高校無償化」制度の後退

 ■「 2 高校無償化制度の後退

 侵害される『学びの権利』『教育への権利』の問題を、次に『高校無償化』問題に即してみていきたい。

 (1)経緯

まず、この問題の経緯を確認する。1979年に、日本は国際人権A規約(社会権規約)を批准したが、その際、同規約13条2項(b)(c)について、『これらの規定にいう『特に、無償教育の漸進的な導入により』に拘束されない』との留保を行っている(昭和54年8月4日外務省告示第187号)。この留保が意味するのは、中等・高等教育につき日本は『無償教育の漸進的導入』の義務に拘束されないということである。実際、その後の中等・高等教育政策において、『無償化』はまったく俎上に上らなかった。

 この政策に変化が生じたのは、民主党政権に移行してからである。同政権下の2010年、いわゆる高校無償化法(『公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律』)が成立し、公立高校については授業料不徴収、私立高校については生徒への就学支援金支給という制度が発足したのである。そして、これと前後して2012年9月、日本政府は国際人権A規約への留保を撤回した。

 2012年12月、政権が再び交代し、自公連立政権が復活する。そのもとで2013年、高校無償化法が改正され、名称も『高等学校等就学支援金支給に関する法律』に変えられた。

(2)法改正の影響

 高校無償化法改正の主な内容は、①公立高校については授業料不徴収を廃止し、一定所得以下の家庭に『就学支援金』を給付することとしたこと、②私立高校については、全員に給付していた『就学支援金』に公立高校と同じく所得制限を設定したこと、そして③給付資格として所得制限の基準額を世帯年収910万円としたことなどである。

 この法改正の影響として、以下のようなことが指摘されている。第1に、学校内・教室内に支援金給付対象生徒と対象外生徒が存在することになり、生徒や保護者が分断されること、第2に、所得証明の困難な低所得家庭が排除されるおそれがあること、そして第3に、多数の保護者の所得把握にかかる事務量・費用が増加すること、などである。

 (3)OECD諸国の公立高校授業料

 この問題に関連して、OECD諸国における公立高校の授業料についてのデータを紹介しておく。以下のとおりである。

【無償】オーストラリア、オーストリア、カナダ、チリ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、アイスランド、イスラエル、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカ合衆国

【有償】韓国、イタリア、日本(?)    《後略》  」

(成嶋隆「憲法が保障する『学びの権利』」にいがたの教育情報121号(2016年3月)16頁以下より)

  資料Ⅵ  教育費負担における応益負担・応能負担・無償性

 Ⅵ-1 教育費負担をめぐる国民意識 

 ■「……初等中等教育のみならず、大学教育に関してさえ授業料をとらない国々もある中で、経済大国である日本では、なぜ教育に対する公的支出は低調なのだろうか。……この点については、日本人は、教育とは自己の利益の増大を目指す営みであるから受益者負担を当然のこととして受け止めている、という教育社会学の分析がある。この研究によれば、大学教育に関しては社会が負担すべきと考える人は少数派であり、個人または家族が負担すべきと考える人は8割に及ぶという。しかし、実は積極的に受益者負担の考え方をよしとしているわけではなくて、国民は国の財政事情を慮り、半ば諦め気味に家計負担を受け容れているという見方もある。……」  (徳本広孝「教育・研究における費用負担」法律時報88巻2号)

 ■「……実際、子ども手当や高校無償化といった政策に対しては、財源の問題のほかに、ばら撒きなどという批判があったのはよく記憶されているところであろう。

 更に厳しい現実を矢野眞和は指摘している。矢野らが行った調査によれば、大学教育の費用負担について、社会が負担すべきと考える人は少数派で、個人や家族が負担すべきと考えるのが8割を占める。しかもこの傾向は回答者の学歴などの属性とは関連がないという(矢野 2013)。 《中略》

 政策は人々の意見を反映させて実施されるものと考えると、大学生への学費援助とか、ましてや学費の無償化といった政策は、財源の問題を別にしても、政治家にとってはあまり票にならない、不人気の政策となりそうである。ただ一方で、こうした意識は瞬時に形成されるわけではなく、これまでの日本の学費負担をめぐる状況が作り出してきた、という見方もできそうである。つまり大学の学費負担は個人(家庭・親)がこれまでずっと行ってきたという伝統があり、それが既成事実化して『個人(家庭・親)の責任で行うものだ』というのが当たり前のものとして定着してしまった、ということだ(矢野 2013)。」

(中澤渉『なぜ日本の公教育費は少ないのか――教育の公的役割を問いなおす』勁草書房・2014年、11~13頁)

 ■「日本では、教育は個人が負担するもので、社会が負担するものとはあまりみなされていません。教育に対する公的支出は、世界的にみて最低水準にあります

 小学校から大学までの教育機関に対する公的な教育支出が国内総生産(GDP)に占める割合をみると、2013年は3.2%でした。OECD(経済協力開発機構)のうち、データのそろう33カ国中、下から2番目です。特に大学などの高等教育への公的支出は最下位で、幼稚園や保育園などの就学前教育も最低ランクです。

 義務教育は無償ですが、給食費や修学旅行などの参加費、制服代など、実際には相当多くを私費に頼っています。

 『教育は国家の要なんだから、もっと教育を重視して、公費を投入すべきだ』。そんな声が上がってもいいはずです。ヨーロッパ諸国では、小学校から大学まで授業料が無料または低額です。しかし日本は状況が違うようです。

 人々の意識の違いに目を向けてみます。高齢者福祉や子育てなどの公共サービスについて、『政府の責任か、個人や家庭の責任か』をたずねた10年の意識調査(日本版総合的社会調査)で、高齢者の年金を『政府の責任だ』と考える人は6割、高齢者医療も7割いました。一方で、教育では3割、保育・育児も3割に届きません。つまり、『教育は家庭や個人で負担するのが当然だ』と考える人が多いのです。

 戦後、子どもたちに教育の機会が広がり、進学率は上がりました。背景にあったのは『努力主義』です。『がんばった人が報われる』ことが学校現場で奨励され、だれもが最低限の読み書き計算ができるようになった。質の高い労働力が高度経済成長を支え、プラスの効果はありました。

 でも、努力主義が行きすぎると、成績や学歴はすべて『自分の手柄』とみなされてしまう。だから社会に出てから、自分が受けた教育の成果を、税を納めるなどの形で社会に還元しようという姿勢は弱まってしまいます

 近年は長引く不況もあり、大学の授業料を払うことが難しい家庭が増え、社会問題になっています。終身雇用のシステムが崩れ、親の賃金上昇は見通しにくいにもかかわらず、塾代や大学の授業料など負担は増える一方です。

 今後は、高校や大学への進学をあきらめる子どもが増えるかもしれません。将来の展望すら描けず、『社会は何もしてくれない』と感じて、大人になる。出産や子育てをためらう傾向も強まるでしょう。日本の社会の活力が奪われていきます。この状況を放置すれば、社会の分断につながります。こうした流れを食い止めるには、『教育への投資は、社会への投資だ』という意識の転換が必要だと思います。 《後略》 」

(中澤渉「『個人の責任』意識が壁に」朝日新聞2017年1月7日付朝刊「オピニオン&フォーラム 教育への投資」)

 ■「 教育を自己責任とする社会

 就学前教育についても、現実には子どもの多くにとって必要なものだ。しかしおそらく日本では、子育ては個人の自由な選択の結果と理解されており、社会としてサポートすべき問題という認識は薄いように思われる

 女性が育児の主たる担い手であるべき、と考える層は、依然一定程度存在しており、その人々からすれば、自己選択で生んだ子の育児を外部化することが自分勝手と映るのかもしれない。現実に、保育所を必要とする共働きの親の多い都市部での保育施設不足は深刻であり、労働環境も社会の変化にうまく対応できているとは言い難い。これらの要因が重なり、子育ては非常にコストのかかる選択となっている。

 つまり、現在子どもをもたない人々からみて、子どもをもつことによるデメリットが、メリットを上回ると認識されてしまっていることが、日本の少子化の根底にあるだろう。

 ただ2017年より、部分的に給付型奨学金制度が創設されたり、就学前教育の無償化が選挙の争点として取り上げられたりして、デメリットを少しでも取り除こうという議論はなされるようになった。

 日本人は教育熱心だと言われることがある。しかしそれは、自分の子に対しての話だ。親(保護者)は無理をしてでも教育費を払う。つまり親は、そのようにして子どもに教育を受けさせるのが当然の務めだ、という暗黙の了解がある。そこには、教育を通して社会全体に還元する、という視点がない。だから教育費負担に喘ぐ、子どもをもつ家庭を除けば、教育費に対する世論、要求はなかなか高まらない。矢野眞和らはこうした日本人の公教育費に対する無理解を指し、『教育劣位社会』とよんだ。

 もちろん教育への熱心さには家庭による違いがある。それはしばしば、家庭の豊かさ、保護者の社会的地位(職業や学歴)と関連している。『教育を受けたい人間が、自分で負担して進学すればいい』という姿勢は、教育選択の自由を保障しているかのようにみえる。しかし見方を変えれば、出身階層による教育達成の不平等も、本人の選択の結果と解釈され、自己責任論を補強するものとなる

 大学などの高等教育進学に対して、公的な財政支援が脆弱な理由の1つは、人々の要求が相対的に弱いからではないかと、筆者はかつて国際比較調査から推測した。そうなってしまったのは、日本では就学前教育や高等教育は保護者が負担してきた長い歴史があり、公的にサポートすべきという理解がほとんど浸透する余地がなかっただけではなく、それらが公的に支える価値のあるものと見なされていなかったからだろう。

 アメリカでは、大学(高等教育機関)の正の外部性を実証する研究が多く見られるが、日本はそういった研究がまれである。教育を担う側に、教育の重要性を説得力のある形で社会に訴える姿勢が欠けていたのではないか。政策決定のための大きな流れをつくるためには、人々の理解と共感が前提となるのだ。」

(中澤渉『日本の公教育――学力・コスト・民主主義』中公新書・2018年、28~29頁)

■ 教育格差「当然」「やむをえない」6割超 保護者に調査

 朝日新聞社とベネッセ教育総合研究所が共同で実施する「学校教育に対する保護者の意識調査」の結果が4日、まとまった。全国の公立小中学校の保護者7400人に聞いたところ、教育格差について「当然だ」「やむをえない」と答えた人は62.3%となり、4回の調査で初めて6割を超えた。また、子どもの通う学校への満足度は83.8%で、過去最高となった。

 ● 教育格差、「容認」の考えを持つのはどんな保護者?

 調査では「所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向」について「当然だ」「やむをえない」「問題だ」の3択で尋ねた。「当然だ」と答えた人は9.7%で、2013年の前回調査の6.3%から3ポイント以上増えた。1回目の04年、2回目の08年(ともに3.9%)からは6ポイント近い増加だった。また、「やむをえない」は52.6%で、初めて半数を超えた前回の52.8%とほぼ同じ。格差を容認する保護者は計62.3%となった。一方、「問題だ」は34.3%で前回の39.1%から5ポイント近く減少。08年調査の53.3%と比べると、19.0ポイントも減ったことになる。調査では今後の日本社会で「貧富の差が拡大する」かどうかも聞いた。「とてもそう思う」「まあそう思う」の合計は85.0%で、多くの保護者は格差が拡大すると見ていた。

 子どもが通っている学校については「とても満足している」「まあ満足している」「あまり満足していない」「まったく満足していない」の4択で尋ねた。「とても」は13.5%、「まあ」は70.3%で、合計した「満足度」は83.8%だった。この質問への回答を初回調査からみると、満足度は73.1%(04年)、77.9%(08年)、80.7%(13年)と毎回高くなっており、今回も過去最高だった。特に、「とても」の保護者は04年の4.9%と比べて、8.6ポイント増えた。小学生の保護者だけをみると満足度は86.8%で、中学生の保護者の77.8%より9.0ポイント高かった。(土居新平、編集委員・氏岡真弓)

 調査は昨年12月~今年1月に実施された。28都県、公立小中54校の小学2、5年生、中学2年生の保護者計9079人に調査票を配り、7400人から回答を得た。お茶の水女子大の耳塚寛明教授、一橋大の山田哲也教授(いずれも教育社会学)も調査に加わり、質問の設定や回答の分析を行った。保護者の意識調査は、文部科学省や内閣府なども実施している。だが、教育への意見や学歴、経済的ゆとりとの関係などを数千人規模で継続的に調べている調査は国内で他にない。

(朝日新聞DIGITAL, 2018.04.05)(https://www.asahi.com/articles/ASL3S5VPYL3SUTIL014.html)

 Ⅵ-2 無償化否定論・懐疑論 

 ■「たしかに教育の無償性ということのなかには、教育の機会均等の契機がふくまれていないことはなかろう。そして無償化を徹底すればするほど貧困家庭の教育負担は軽減され社会保障の目的も達成されよう。しかしこれによれば、自分の子供のために十分の負担ができる圧倒的多数の親たちも支弁をまぬかれるのである。このこと自体を『悪平等』とはいわないでおこう。しかしそういう親たちが、公教育以外のところでもう一層多額の教育費・養育費を、いやいや遊興費をも、喜んで負担している現状を横目で眺めるとき、私は機会均等よりも『均等の“機械化”』をみる想いがするのを、どうすることもできない。」   (奥平康弘「『機会の均等化』と『均等の機械化』」奥平『ヒラヒラ文化批判』有斐閣・1986年、240頁)

 ■「また、いまも低所得世帯は幼児教育が無償化されているため、一律無償化で恩恵を受けるのはむしろ中高所得世帯だという指摘もある。慶応大の赤林英夫教授(教育経済学)は『この政策でなにが得られるか明らかにされていない。無償化されれば、経済的に余裕のある家庭が塾や習い事にお金を使い、教育格差が広がる可能性もある』と指摘する。」

(朝日新聞2017年10月14日付)

 ■「たとえば、幼稚園や保育園には、家計の苦しい世帯向けの減免措置がすでにある。一律無償化によって恩恵を受けるのは、中間層と富裕層だ。収入の多寡を問わず、子育て世代すべての負担を軽くするという考えもあるだろう。しかし、そのお金があるのなら、保育所の建設や保育士の育成・確保こそ急ぐべきではないか。……

 ……働く女性を中心に『無償化よりも保育所を』との声が上がるのは、ごく自然なことだ。

 教育の無償化が政策課題として近年浮上したのは、7人に1人という子どもの貧困率の高さが社会問題化したのが大きい。ひとり親家庭の貧困率は5割を超える。親から子への貧困の連鎖を断つ必要性は、人々の間で共有されつつある。

 根底にあるのは、家計を支える保護者らの不安定な就労だ。全教育課程の無償化が実現したとしても、生活が苦しければ働かざるをえず、進学をあきらめる子はなくならないだろう

 聞こえのいい教育無償化にとどまらず、就労支援などで生活の安定を図らなければ真の解決にならない。……」

(朝日新聞2017年10月17日社説「優先順位とメリハリを」)

 ■「……、幼児教育への投資の中身が『無償化』であるべきか、と問われると、私の答えはノーだ。教育には需要(保護者や生徒)と供給(国や自治体、学校)が存在する。幼児教育に限らず、『無償化』という政策は、需要サイドに働きかける再分配政策である。例えば、開発途上国では義務教育の就学率を上昇させるために、1990年代後半から段階的に授業料の無償化が行われ、大きな成果を上げた。しかし、わが国の5歳児の幼児教育の就学率は96%にも達しており、無償化によってもたらされる追加的な就学率の上昇は極めてマイナーなものにとどまる可能性が高い

 もちろん、残りの4%が、貧困、虐待やネグレクトといったリスクに晒されているなど、困難な環境にある子どもたちである場合は、たとえわずかな就学率の上昇でも大きな効果を持つ可能性はある。この4%がどのような子どもたちであるかについての正確な統計は存在しないものの、幼稚園や保育所は所得に応じて授業料等の支払いを行う応能負担となっており、生活保護や住民税非課税世帯にはそもそも幼稚園の授業料や保育料は課せられない。このため、貧困が理由で幼稚園や保育所に通っていない可能性は低いのではないかと考えられる。また、虐待やネグレクトのリスクに晒されている子どもたちであったとしても、無償化によって就学を促す効果は期待しにくい。……

 追加的な就学率の上昇があまり見込めないとすれば、……赤林英夫教授が指摘しているとおり、既に家計が負担している幼児教育の費用を国が税金で負担することになったとしても、負担している人が変わるだけなので、追加的な社会的収益率はほとんどゼロと考えられる

 こうしたことをすべて考え合わせれば、3~5歳の幼児教育無償化は、比較的収入が高い世帯への単なる所得移転となり、むしろ格差を拡大させてしまう。ゆえに3~5歳児の幼児教育の無償化が最優先で行われるべき課題とは考えられない

《中略》

 しかし、仮に、供給面での問題が解消されたとしても、全てを無償化すべきかという点については慎重になる必要がある。現状、認可保育所については、生活保護世帯、住民税非課税世帯、母子等の世帯の保育料は無償で、全ての人に第二子は半額、第三子は無償化されているので、自治体の保育料の収納率は高く、応能負担制度はうまく機能している。つまり、所得に応じて、皆がきちんと保育料を納めているのである。そうであるならば、無償化すればここでもまた、比較的収入が高い世帯への所得移転・格差拡大となる可能性がある。 《中略》

 次に、大学教育の無償化についても論じたい。『人づくり革命』の政策パッケージの中では、大学教育については、住民税非課税世帯の子どもたちに対して、国公立大学の場合は入学金と授業料を免除、私立大学の場合は国立大学を少し上回る程度の上乗せ助成するというのが柱である。

 あまり議論されないが、これは決して目新しいものとは言えない。なぜなら、これまでも国立大学には授業料減免措置があり、世帯員の数や大学の運用方法などによって増減するものの、おおむね世帯収入が300万~400万円以下の学生の授業料は減免されており、国立大学在籍者の約10%に相当する。加えて、2017年には低所得世帯の学生を対象に『給付型奨学金』が創設され、授業料免除に加えて月額2万~4万円程度の生活費が支給されるようになっている

 敢えて、このパッケージの新しい点を言えば、授業料減免措置において私立大学向けが大幅に拡充されること(ただし、私立大学についても、従来から経済的に困難な学生に対して授業料減免措置等を行う場合に、授業料の2分の1の補助があった)や専門学校も対象となること、支給される生活費部分の金額が上乗せされることくらいであろう。

 行政の視点でみれば、これまで文部科学省予算であった低所得世帯向けの国立大学授業料の無償化や給付型奨学金の拡充部分が、2019年に増税が予定されている消費税の使途変更によって賄われることになったという意味で大きな変更かもしれないが、国民の視点でみれば、著しく大きな変革とまでは言えないだろう。

 私は給付型奨学金の創設にはかねて賛同しており、……。その理由は、教育の機会均等の確保という観点から重要だということに加え、海外の研究でも給付型奨学金が卒業後の就業や賃金に与える効果が大きいことを示した実証研究が多く存在しているからである。

 ただ、これが格差是正に有効かと言われると、そうとも言えない。……。保護者の経済状況による学力格差は小学校低学年の時には始まっているという。……学力格差は小学校低学年の時か、それよりも前に始まっている可能性を示唆するものがあり、通塾などの学校外教育への投資でみてみると、学年が上がるごとに保護者の経済状況による学力格差が拡大していくことが示されている。つまり、大学の時点で授業料を無償化したとしても、それがどの程度、格差是正に有効なのかという疑問が生じるのだ。

 これまでの教育社会学の研究蓄積では、保護者の経済状況は、単に学力の格差を生み出すだけではなく、子どもの意欲や将来への明るい希望といったものにまで影響していることを示唆している。意欲や希望の格差が、就学前や小学校の低学年に始まっているのだとすれば、大学生の時点で『経済的に困難な状況だが、学力が高く、勉学に意欲を持ち、進学の希望に燃えている』という若者は、本当に救済すべき対象とは言えないだろう。 《後略》」

(中室牧子「教育無償化の論点――政治的流行を超えて」中央公論2018年3月号104頁以下)

 ■「さて、教育も福祉も政府の担う一事業であるが、このような位置づけについては様々な議論がある。教育の平等化の機能を前提にした福祉国家的議論に立つと、教育と福祉は類似した機能をもつことになる。一方で、教育の配分機能を強調すれば、教育は新たな差別や格差を生む機能をもつという見方になる。……経済学的な見方に則れば、初等中等教育は公共財としての性質が色濃い。しかし高等教育は、……、他の社会保障分野の政策と異なりむしろ富裕者にメリットをもたらすという点で異質である。なぜなら統計的に見て、高等教育進学者は富裕者(の子)が多い。保険や福祉は、いわゆる所得再分配政策であり、社会の絶対的平等に貢献するが、高等教育の機会の平等は課題になっても、そもそも結果の平等を実現しようとするものではない。そして税負担が万遍なく行われているとすると、高等教育のメリットを受けるのは進学した富裕層になるので、そのままでは高所得者に所得の配分を行う逆進性をもつことになる。

(中澤・前掲『なぜ日本の公教育費は少ないのか』113頁)

 ■「日本で無償化の実現性が議論の対象となるのは、それがほとんど実現していない就学前教育か、高等教育になる。ただし、ほとんどの3歳児以上の子どもは、すでに就学前教育を受けていること、また高校を卒業してすぐに就職する生徒は2割弱であるという現状は理解しておこう。こういった状況のもとで、無償化の意味やインパクトは何なのだろうか。

 就学前教育について、社会的効率性より民主的平等という観点に重きを置き、実質義務教育と見なして社会的に担うべきだ、だから無償化すべき、という考え方はあってよい。社会政策の決定は、常に効率性を最優先に判断しなければならないものではない。

 しかし、赤林英夫が指摘しているが、3歳児以上の就学前教育の無償化は、家計からみれば、支払っていた幼稚園や保育所の費用が浮くことを意味するだけだ。また保育料は所得に連動しており、低所得層の負担額はもともと少ない。幼稚園の授業料も、収入によっては免除されることがある。つまり無償化が導入されても、低所得層の家計に大きな影響はない。しかし、高所得層の負担はただになる。すると高所得層は、そこで浮いた金を、追加の私的学校外教育(習いごとなど)に使おうとするかもしれない。そうなると無償化は、むしろ格差の拡大すら起こしかねない

 財源に限界がある以上、政府はコストをかける対象について、優先順位をつけざるを得ない。日本では都市部で、待機児童の問題が深刻化している。すでに浸透している3歳児以上の就学前教育より、まず必要としている人が多数いながら供給が追い付いていない保育所の拡充を優先すべきだろう。待機児童を抱える保育所の問題の方が、機会の平等という点ではより深刻だし、保育所不足で有能な女性まで仕事を辞めざるを得ないのだとすれば、それは経済的損失でもある

 なお、もし0~2歳児の保育を無償化しようとすると保育費が高いからと就業継続を諦めていた女性の就業継続を喚起する。つまり潜在的な待機児童が発掘され、今、待機児童としてカウントされている以上の待機児童が出現するはずだ。待機児童の問題を解決せず、安易に保育を無償化すると、そもそも保育サービスすら受けられない層と、サービスを受けつつ、しかも無償という層とで、著しい不公平を生みかねないことも考慮すべきだ

 高等教育については、全員が進学するわけではない。無償化の財源は税だが、税は高等教育進学者だけから徴収するわけではない。それでも公費をつぎ込むことが正当化されるのは、……、正の外部性が存在するからだ。

 ただ高等教育は基本的に専門教育であり、その専門性や学歴の高い価値が労働市場で評価されるから、高い見返り(所得)が得られるというものだ。もちろん高等教育は社会的便益をもたらすが、将来の私的便益も無視できない。高等教育を受けていない人からも徴収した税で、高等教育の無償化を行うことがフェアなのか、という問題がある。 《中略》

 また無償化の範囲はどこまでを想定しているのか。大学が話題になることが多いが、短大や専門学校はどうなるのか。職業的スキルを獲得することが重視される昨今、大学・短大と専門学校で、学ぶことや身につけるスキルは、学校や分野によってはその区別が曖昧である。大学・短大だけを無償化すれば、専門学校にとって死活問題だ。当然専門学校も無償化を要求するだろう。無償化する大学を選別するという議論もあるようだが、そのような制度設計が本当に可能なのだろうか。

 さらに、特定の職業に結びつくような専門性の高い分野は、社会全体で負担するに見合うほどの便益をもたらすのか疑問のあるものも多い。それほどの高い専門性や資格があれば、市場でそれを売りにして所得(私的便益)を得られるし、そうしたサービスが必要な人は、私的に費用を支払い、サービスを受ける。このように当事者間で取引が成立すれば、そこに公費をあえて投入する必然性は乏しい。一定程度私的便益を受けることが可能な教育を、公費で無償化することに、どこまで社会的コンセンサスが得られるのだろうか。

 ただ高等教育により所得が増えれば、彼らはその分多くの税を納めることになり、貢献をしているとも解釈できる。現在の日本の高等教育は、高水準の授業料の上に、低所得層へのサポートが不足しているのが問題だ。税収が大きく増えることが望めないとすれば、せめて授業料の水準(特に私立)をもう少し下げ、授業料の減免や給付型奨学金の拡充で補うのが現実的な路線なのかもしれない。」(中澤渉『日本の公教育――学力・コスト・民主主義』中公新書・2018年、102~106頁)

 Ⅵ-3 無償化肯定論 

 ■「無償化した結果、経済的に恵まれた層の教育機会がさらに増え、格差は解消しないかもしれない。ただ、大切なのは経済的に厳しい状況に置かれた子を含むすべての子が社会に出た時、自立するために必要な教育を提供することだ経済的に恵まれた層の子たちがさらに伸びることを否定的にとらえるべきではない。

(松田悠介(「ティーチ・フォー・ジャパン」創設者・理事)「質向上へ先生の待遇改善も」朝日新聞2017年10月15日付朝刊「『幼児教育無償化』どう考える」)

 ■「無償化には所得制限をかけるべきではないと考える。受益者を低所得層にしぼると、中高所得層の支持を得られず、制度が安定しない恐れがある。まずは全員が恩恵を受け、その後に中高所得層から所得税として回収すればよい。」

(大岡頼光(中京大教授・福祉社会学)「所得制限せず全員に恩恵を」朝日新聞2017年10月15日付朝刊「『幼児教育無償化』どう考える」)

 ■「 2-6 就学援助制度――東京都の事例

  授業料のみ無償による貧困への影響

 子どもの貧困率が、13.9%となっている。7人に1人が困窮している世帯の子どもたちなのである。……

 現状分析をする前に、戦後の歴史的経過を振り返ることからはじめたい。日本国憲法第26条第2項において、義務教育は無償とすると記されている。ところが、教育基本法第5条第4項では、授業料を無償とするとしか書かれていない。公営施設(校舎校庭)の使用料である授業料をどの範囲までと見るかという厄介な問題が生じてしまったのである。憲法と教育基本法の相違が、子どもの貧困を考える場合の最初の課題となる。

 1990年の第3次小学校令により授業料は廃されている。戦後もこの水準を継承して、全面的な無償化へは踏み出さなかった。これは学校で使うノート類を含めて無償としている欧米の水準に比べて、一段と劣っている。完全無償化であれば、就学援助制度は必要がないのである。事実、欧米には学校給食費については補助制度があるが、学用品費に関する就学援助制度は存在しない。日本で就学援助制度があるのは、学級費等の学校徴収金(学校納付金)があるために、生じたのである。広義の授業料が無償化されれば、就学援助制度は必要がないか、まったく別の子どもの貧困対策事業となるはずである。教育基本法の授業料を、広義の解釈に変えることが求められる時代なのである。

 教育機会の平等を補完する制度として、教育基本法第4条3項『国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない』が記され、学校教育法第19条においても、『経済的理由によって、就学困難と認められる学齢児童生徒の保護者に対しては、市町村は、必要な援助を与えなければならない』という一文が必要となり、これを受ける形で『就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律』(就学奨励法)等の整備が行われた。この法律等によって、公教育への平等な機会を保障する趣旨から特定の基準に則った就学援助制度が始められた。対象は生活保護世帯とそれに準じる世帯であり、支給内容は学校給食費、ノートなどの学用品、修学旅行費用、医療の一部などである。以下、支給内容や支給方法ではなく、入口としての認定の在り方を重点に分析を試みる。

 公教育、とくに義務教育に係る費用を無償とするのは、国際人権規約A-第13条2(a)(b)の視点であり、日本国憲法の視点である。これは全部の子どもたちに適用することから普遍主義という。これに向かって具体的な取り組みが必要となる。対して就学援助制度は、特定の基準を設定した選別主義の対応であり、欠けていることを証明しなくてはならない実施に当たってはスティグマ(負の烙印)を与えることから、原則的には避けるべき手法である。高い割合となっている就学援助制度(図表2-6-1)への現実的な対応として就学援助の認定基準を拡大して普遍主義に近づけることだけではなく、認定にあたってスティグマを緩和するような教育行政上の配慮が重要である。《後略》」

(中村文夫『子どもの貧困と教育の無償化――教育現場の実態と財源問題』明石書店・2017年、53~55頁)

 ■「 第11章 公教育の無償性と憲法

 《中略》

 国際人権条約において応益負担が慎重に排除されているのは、人権の実現のために給付される現物の受給に応益性をもちこむべきではないとの考え方が国際的に確立していることを示している。

 その根拠は、応益負担原則を導入すれば、貧困層はもとより、それに準じる中間層も、必要性を充足することができるだけの金銭を支払う能力がないため、必要を充足する現物給付ができないこと、そして、逆に、支払う金銭の量を支払い可能額に限定してしまえば、子どもの必要性が充足されなくなることに求められる。国際人権法において示されている応益負担禁止というルールは、応益負担では、権利である必要を充足することができないゆえに採用されているものと解される。したがって、応益負担と貧困層向けの選別的給付の組み合わせは、必要充足原則をいったん脇において、とにもかくにも現物給付へのアクセスの障害となる貧困を除去し、不十分な現物給付へのアクセスだけを確保しようとするものということになる。

 そして、国際人権条約において採用されている応能負担原則および無償性原則の区別は、権利の普遍性および重要性を基準にしてなされているものと考えられる。すべての子どもに認められるべき権利を実現するための現物給付において応能負担原則を採用すれば、収入調査のためのコストは膨大となる。正確な収入または支出の把握が実際には相当に難しいことから、正確な収入調査を行なおうとすれば、ますますコストがかさむ。また、応能負担とされるすべてのサービスを明らかにし、その合計額を家庭ごとに出し、それにもとづいて、負担すべき額を算定するという手続きも不可欠となるが、これもまたコスト増に帰着する。そして、膨大なコストをかけて収入調査と応能負担額の算定をいくら正確に行なっても、相応ではない負担を課せられる親が発生し、結果、サービスを享受できない子どもが生まれることは避けられない。重要な権利については、一人の子どももその享受の機会から排除されるべきではないとの要請が発生するのだが、応能負担では、多大なコストがかかるにもかかわらず、その要請を満たすことができない。そこで、社会的な生産活動から得られた富である個人の収入の一部を、国家が応能税または累進課税により徴収し、それを用いて、重要な権利に対応するサービスを無償で提供するとの選択肢がとられるべきことになる

 無償性は、現物給付を必要充足という水準にまで引き上げるための手段のみならず、この水準に達した現物給付へのアクセスをもらさず確保するための手段としての意味をもつ。“権利としての無償性”の実質は、無償性がこの二重の性格を有していることに求められる。教育は将来における多様な幸福追求に共通する基礎、および、ある特定の職業に必要とされる専門的知識の基礎を提供する重要なものであることから、そのような水準の現物給付を確保するには応益負担を採用することができず、かつ、たとえ一人でも家庭の事情や収入調査の限界のために子どもが教育を受ける機会を奪われるべきではないので、無償とされるべきなのである。 《中略》

 授業料の無償性と学修費の応益負担を併存させるにあたって、公教育には、国家的要請あるいは国家体制維持の要請に応じる部分と、私的な要請に応じる部分とがあると論じることそれ自体が、教育を人権としている国際人権条約の考え方とは矛盾している。社会権規約も子どもの権利条約も、公教育の第一目的を子どもの人間としての全面的な発達に求めている。それ以外の目的を規定する場合であっても、国家体制の維持を目的に規定することは注意深く避けている。そして、人格の全面的発達が第一目的とされているので、これ以外の目的を優先させて、人格の全面的発達を阻害することは許されない。人間としての成長発達という子どもの個人的利益の実現を第一目的としているにもかかわらず、ではなく、それだからこそ、公教育はすべての段階にわたって、すべての事柄について無償化されなければならない、というのが国際人権法の考え方なのである

 また、親の権利の根拠を子育て費用の負担に求める議論は、国際人権法に照らせば相当な暴論となる。親がその権利を国家との関係で主張できるのは、『〔子どもの権利〕条約において認められる権利を子どもが行使するにあたって、子どもの能力の発達と一致する方法で適当な指示および指導を行なう責任、権利および義務』を親が果たしているからであり、これらを果たしているかぎりにおいて、国はそれを『尊重する』義務を負うのである(5条)。そして、親が行なうべき『適当な指示および助言〔指導?〕』は、子どもの意見表明権、すなわち、『その子どもに影響を与えるすべての事柄について自由に自己の見解を表明する権利」を認め、かつ、表明された意見を『その年齢および成熟に従い、正当に重視』することを意味している(12条)。親の権利は、子どもとの間で受容的・応答的人間関係を保障していることにその根拠があり、だからこそ、親はその資力の範囲内で財政負担をすればよいとされている(27条)。すなわち、国際人権法においては親の権利は、受容的・応答的人間関係の実現にその根拠が求められ、金銭の支払いは、この権利の条件とされてはいないのである。

 そして、無償性の導入による“逆差別”については、税制を考慮すれば、何ら問題とはならない。無償性の拡大には、応能税さらには累進課税が不可避なのであり、冨者は学修費の支払いを免れることはできるのだが、その裏面では、収入に応じて課税され、支払いを免れることのできる以上の金銭を税として徴収されることになるからである。 《中略》

 日本の判例および憲法学通説が問題なしとしてきた、親(または子ども)による応益負担には、初等中等教育に限定すれば、おおよそ次の3つのパターンが存在してきた。①義務教育における教科書を除く学修費および給食費、②公立高校における学修費および、教員給与と学校建設費を除く学校運営費、そして、③私立高校における教員給与および学修費である。これらについては、子どもの必要充足原則を満たすものとなっていないこと、また、例外としての選別的現金給付も十分に機能していないことが明らかとなっている。

 義務教育における学修費の応益負担原則を例にとれば、教育的必要を満たしえない水準での現物給付が行なわれる危険性がすでに現実のものとなっている。親からの多額の私費を学校が集めることができないために、必要とされる水準以下の教材しか購入できず、教育的必要を満たすことのできない水準で授業を行なうか、さもなければ、教師が自己負担により教材を購入して、それを満たす授業を行なうという慣行が一般化しているのである。教育の機会均等を実現するのに必要十分とされている選別的給付についても、それが不十分となる危険性が現実のものとなっている。マイナスの烙印を押されたくないという気持ちゆえに、就学援助または生活保護の申請を行なわない者が層として存在し、この層による学校が選択した教材の不購入という事態が大量に生まれているのである。

 そして、日本の現状をみれば、課税対象となりうる富は富者および企業に十二分に存在し、利用可能な措置をとって獲得することのできる財政の範囲内で、①から③を公費負担とし、無償性を実現できることは確かである。また、富者および企業への課税を引き上げることにより学修費を無償化した場合に、それによって生まれる利益を凌駕する具体的な不利益が生まれるとはいいがたい。

 応益負担原則に内在する危険性が、すでに現実のものとなり、これらを公費負担により、無償化するための法的およびその他の措置をとらないことについての正当な事由も存在していない。上述した①から③の状態、および、無償化立法の不在は、社会権規約13条および子どもの権利条約28条、ならびに、これらを充足して再構成される憲法26条に反しているものと結論されるべきであろう。…… 《中略》

  終章 公教育の無償性を実現する新しい法制の骨格

 《中略》

  4  新しい法制のもとにおける公教育費の水準

 公立小中高等学校における30人以下学級と授業料・学修費の完全無償化のために必要とされる公費支出の増加額は、それぞれ約1兆2600億円と約2兆1100億円、計約3兆3700億円であった。また、新しく組み替えられた私学助成制度の実施のためには約1兆2000億円の公費支出の増加が必要となる。

 最後に、前者だけを実現した場合(ケース1)と、前者と後者の双方を実現した場合(ケース2)とに分けて、それぞれが、日本の教育にかかわる公財政支出(中央政府のそれと地方政府のそれの双方を含む)のGDPに占める割合を、どのように変化させるのかを、OECD加盟国との対比において確認し、その実現可能性を検証することにしたい。

 OECD『図表でみる教育 OECDインディケータ』(2011年版)によれば、日本の2008年度における、初等中等教育への公費支出の対GDP比は2.5%、私費支出のそれは0.3%であった。当該年度の日本の名目GDPは約490億円であったので、初等中等教育への公費支出の実額は、約12兆3000億円ということになる。ケース1の場合、公費支出の実額は3割弱増加し、その対GDP比は0.7%上昇し、3.2%となる。だが、OECD加盟国平均の3.5%には及ばない。そして、ケース2の場合では、公費支出の実額は4割弱増加し、その対GDP比は0.9%上昇し、3.4%となるが、これでもなお、OECD加盟国平均にようやく届くかどうかの水準にとどまる。ケース1はもとよりケース2を実現することも、国際的な標準からみれば、ごく控えめな要求にすぎない。……」

(世取山洋介・福祉国家構想研究会編『公教育の無償性を実現する――教育財政法の再構築』大月書店・2011年、455頁以下)

 ■「 おわりに――財源見通し

 『2018問題』の対応に必要な財源をどう考えるか。与野党一致のOECD平均並みの教育予算(公財政教育支出の対GDP比)を確保すれば5.9兆円増額となる(2014年GDP489.6兆円×1.2%〔OECD平均4.4%-日本3.2%〕、……)。幼稚園~大学の教育無償化の所要額は約4兆円(自民党試算4.1兆円)、残余の約2兆円で給付奨学金拡充、教職員定数改善、30人学級、非正規雇用解消などが可能であり、それによって欧米並み教育条件の水準に接近する

 財源は大企業・富裕層の累進課税強化で確保できる。大企業の内部留保(資本金10億円以上の法人企業の利益剰余金、17年1~3月。前年同期374.2兆円比7.0%増の26.2兆円増)400.4兆円の1.0%=4兆円個人金融資産(17年1~3月)1809兆円の1.0%=1.8兆円の合計で5.8兆円である。予算増によるとりわけ教育無償化・給付奨学金の飛躍的前進は、貧困・格差の根本的解決のほか、次世代の豊かな成長、家庭・人生のゆとりの回復、少子化の解決、労働生産人口の増加、労働能力の向上・更新など、産業界も含め日本社会存亡にかかわる喫緊の国家的事業であることを銘記したい。」

(三輪定宣〔千葉大学名誉教授・奨学金の会会長〕教育無償化・奨学金と『2018年問題』――迫られる政府の国際人権A規約13条履行義務)経済No.270(2018年3月)145頁)

 

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